まず、最初に「人とは?」から考えます。あの人は「良い人」とか「悪い人」とか、あるいは「元気な人」というときは、精神面と肉体面との二面性を評価しています。それを数式に置き換えてみます。
自我とは自分の知恵と心。すなわち意識。無我とは自分の肉体。この自我と無我が、両立している事実を明確に認識すること。これこそが愚拙九安が受け継ぎ、そして、仏法体得の前提条件となります。仮に自我が生きたいと思っても、その意に反し肉体は死ぬこともあります。また、自我が死にたいと思っても、思っただけでは死ぬことはできません。自我の意思で死を望むなら無我である生命活動を停止する行動が必要です。つまり、不可分とも思える自我と無我は、別物であることがわかります。それは、ちょうどコンピュータのソフトとハードの関係と良く似ています。今日では、ソフトであるプログラムやデータが重要視され、ハードであるCPU、メモリ、ハードディスクは部品として、ある意味消耗品化されています。しかし、仏教を体得し成仏できるのは、ソフト(自我)ではなく、物理的なハード(無我)の方なのです。つまり、自我と無我とを分別し、仏力(無量寿)を体得したのちに仏智・仏心が宿る、という順序になります。