言葉の定義

まず、最初(さいしょ)に「(ひと)とは?」から(かんが)えます。あの(ひと)は「()(ひと)」とか「(わる)(ひと)」とか、あるいは「元気(げんき)(ひと)」というときは、精神面(せいしんめん)肉体面(にくたいめん)との二面性(にめんせい)評価(ひょうか)しています。それを数式(すうしき)()()えてみます。

① 人=精神+肉体
② 人=自我+無我
③ 精神=自我
④ 肉体=無我

自我(じが)とは自分(じぶん)知恵(ちえ)(こころ)。すなわち意識(いしき)無我(むが)とは自分(じぶん)肉体(にくたい)。この自我(じが)無我(むが)が、両立(りょうりつ)している事実(じじつ)明確(めいかく)認識(にんしき)すること。これこそが愚拙(ぐせつ)九安(きゅうあん)()()ぎ、そして、仏法(ぶっぽう)体得(たいとく)前提(ぜんてい)条件(じょうけん)となります。(かり)自我(じが)()きたいと(おも)っても、その()(はん)肉体(にくたい)()ぬこともあります。また、自我(じが)()にたいと(おも)っても、(おも)っただけでは()ぬことはできません。自我(じが)意思(いし)()(のぞ)むなら無我(むが)である生命(せいめい)活動(かつどう)停止(ていし)する行動(こうどう)必要(ひつよう)です。つまり、不可分(ふかぶん)とも(おも)える自我(じが)無我(むが)は、別物(べつもの)であることがわかります。それは、ちょうどコンピュータのソフトとハードの関係(かんけい)()()ています。今日(こんにち)では、ソフトであるプログラムやデータが重要視(じゅうようし)され、ハードであるCPU、メモリ、ハードディスクは部品(ぶひん)として、ある意味(いみ)消耗品化(しょうもんひんか)されています。しかし、仏教(ぶっきょう)体得(たいとく)成仏(じょうぶつ)できるのは、ソフト(自我(じが))ではなく、物理的(ぶつりてき)なハード(無我(むが))の(ほう)なのです。つまり、自我(じが)無我(むが)とを分別(ぶんべつ)し、仏力(ぶつりき)無量寿(アミターバ))を体得(たいとく)したのちに仏智(ぶっち)仏心(ぶっしん)宿(やど)る、という順序(じゅんじょ)になります。

無我とは?

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