無我とは?

無我とは何か?

繰り返し述べていますように、仏言(ぶつごん)は、ただの一語を会得することからでも悟りの境地を得ることができます。要するに、膨大な経典をすべて読破する必要はなく、仏言一語を深く噛みしめ、思いを巡らし、理解を深め、疑問を晴らして、仏行(ぶつぎょう:ほとけの行動)を体得することができるのです。数多くの経典や教えが残っているのは、仏の側から「こう言えばわかってくれるだろう」「ああ言えば理解できるだろう」と、いわゆる方便として、あの手この手が差し伸べられているのです。無我の実態を知り、無我の正体を認識する、あるいは、無我を体感することができれば、すなわち、悟りを得たと同じことになります。

常識的に解釈すれば、我が無いと書きますので、無意識の状態か、寝ている状態を意味すると思われかも知れません。無意識や寝ていて悟りが得られるなら苦労はしませんが、そのような雲霧をつかむような話ではありません。仏教は情緒的ではなく、極めて論理的です。意識している自我。無意識に動く呼吸や心臓。この自我と無我とを鮮明に区別し、自我が無我に集中することで仏法は体得できるのです。その状態は、「我あって我なき」自我と無我とが両立する現実です。成功すれば、自我でなく無我の方へ、仏力が入って来ます。その体験は、帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)とも、虚空蔵求聞持法(こくぞうぐもんじほう)とも、あるいはの釈迦の呼吸法(安般守意)とも伝承されています。

仏教を体得するための準備

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