仏法を伝えるためには正しい「言葉使い」が欠かせません。しかし、この言葉は、時代が変遷する中で本来の意味とは違ったり、人によっては受け止め方が異なったりします。それでも、その言葉を使わずに仏教を伝承することは困難です。従って、まず最初に言葉の基本的な定義を行います。
仏教は、「人間が仏身になること」、すなわち、「この世で成仏すること」が最終目的です。悩みから解放されたり、病気が治ったりすることがあるのは、体が仏身に育まれる過程でもたらされる仏果(現世利益)なのです。
仏教を信じ、求める者は、誰でも救われます。誰でもとは、老若男女、貧者も富者も、知者も愚者も、強者も弱者も、あまねく自他平等を意味します。
ただし、「求める者すべてが漏れなく、その利益にあずかることができる」ということではありません。当たり前ですが、「正しく信じ」、「正しく求める」ことが必要条件です。
さて、「人間が仏身になる」ということですが、仏教は、「人間とは何か」、「人間は如何に生きるべきか」、この根本的な疑問を明らかにしてくれます。
そこでまず、一般に「人とは?」から考えます。あの人は「良い人」とか「悪い人」とか、あるいは「元気な人」というときは、精神面と肉体面との二面性を評価しています。それを数式に置き換えてみます。
自我とは自分の知恵と心。すなわち意識。無我とは自分の肉体。この自我と無我が、両立している事実を明確に認識すること。これこそが愚拙九安が受け継ぎ、そして、仏法体得の前提条件となります。仮に自我が生きたいと思っても、その意に反し肉体は死ぬこともあります。また、自我が死にたいと思っても、思っただけでは死ぬことはできません。自我の意思で死を望むなら無我である生命活動を停止する行動が必要です。つまり、不可分とも思える自我と無我は、別物であることがわかります。それは、ちょうどコンピュータのソフトとハードの関係と良く似ています。今日では、ソフトであるプログラムやデータが重要視され、ハードであるCPU、メモリ、ハードディスクは部品として、ある意味消耗品化されています。しかし、仏教を体得し成仏できるのは、ソフト(自我)ではなく、実体のあるハード(無我)の方なのです。つまり、自我と無我とを分別し、仏力(無量寿)を体得したのちに仏智・仏心が宿る、という順序になります。