仏教を体得するための準備
  1. 前提(ぜんてい)

    仏法(ぶっぽう)(つた)えるためには(ただ)しい「言葉(ことば)使(づか)い」が()かせません。しかし、この言葉(ことば)は、時代(じだい)変遷(へんせん)する(なか)本来(ほんらい)意味(いみ)とは(ちが)ったり、(ひと)によっては(うけ)()(かた)(こと)なったりします。それでも、その言葉(ことば)使(つか)わずに仏教(ぶっきょう)伝承(でんしょう)することは困難(こんなん)です。(したが)って、まず最初(さいしょ)言葉(ことば)基本的(きほんてき)定義(ていぎ)(おこな)います。

  2. 概要(がいよう)

    仏教(ぶっきょう)は、「人間(にんげん)仏身(ぶっしん)になること」、すなわち、「この()成仏(じょうぶつ)すること」が最終(さいしゅう)目的(もくてき)です。(なや)みから解放(かいほう)されたり、病気(びょうき)(なお)ったりすることがあるのは、(からだ)仏身(ぶっしん)(はぐく)まれる過程(かてい)でもたらされる仏果(ぶっか)現世利益(げんぜりやく))なのです。

    仏教(ぶっきょう)(しん)じ、(もと)める(もの)は、(だれ)でも(すく)われます。(だれ)でもとは、老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)貧者(ひんしゃ)富者(ふうしゃ)も、知者(ちしゃ)愚者(ぐしゃ)も、強者(きょうしゃ)弱者(じゃくしゃ)も、あまねく自他(じた)平等(びょうどう)意味(いみ)します。

    ただし、「(もと)める(もの)すべてが()れなく、その利益(りやく)にあずかることができる」ということではありません。()たり(まえ)ですが、「(ただ)しく(しん)じ」、「(ただ)しく(もと)める」ことが必要(ひつよう)条件(じょうけん)です。

    さて、「人間(にんげん)仏身(ぶっしん)になる」ということですが、仏教(ぶっきょう)は、「人間(にんげん)とは(なに)か」、「人間(にんげん)如何(いか)()きるべきか」、この根本的(こんぽんてき)疑問(ぎもん)(あき)らかにしてくれます。

  3. 言葉(ことば)定義(ていぎ)

    そこでまず、一般(いっぱん)に「(ひと)とは?」から(かんが)えます。あの(ひと)は「()(ひと)」とか「(わる)(ひと)」とか、あるいは「元気(げんき)(ひと)」というときは、精神面(せいしんめん)肉体面(にくたいめん)との二面性(にめんせい)評価(ひょうか)しています。それを数式(すうしき)()()えてみます。

    ① 人=精神+肉体
    ② 人=自我+無我
    ③ 精神=自我
    ④ 肉体=無我

    自我(じが)とは自分(じぶん)知恵(ちえ)(こころ)。すなわち意識(いしき)無我(むが)とは自分(じぶん)肉体(にくたい)。この自我(じが)無我(むが)が、両立(りょうりつ)している事実(じじつ)明確(めいかく)認識(にんしき)すること。これこそが愚拙(ぐせつ)九安(きゅうあん)()()ぎ、そして、仏法(ぶっぽう)体得(たいとく)前提(ぜんてい)条件(じょうけん)となります。(かり)自我(じが)()きたいと(おも)っても、その()(はん)肉体(にくたい)()ぬこともあります。また、自我(じが)()にたいと(おも)っても、(おも)っただけでは()ぬことはできません。自我(じが)意思(いし)()(のぞ)むなら無我(むが)である生命(せいめい)活動(かつどう)停止(ていし)する行動(こうどう)必要(ひつよう)です。つまり、不可分(ふかぶん)とも(おも)える自我(じが)無我(むが)は、別物(べつもの)であることがわかります。それは、ちょうどコンピュータのソフトとハードの関係(かんけい)()()ています。今日(こんにち)では、ソフトであるプログラムやデータが重要視(じゅうようし)され、ハードであるCPU、メモリ、ハードディスクは部品(ぶひん)として、ある意味(いみ)消耗品化(しょうもんひんか)されています。しかし、仏教(ぶっきょう)体得(たいとく)成仏(じょうぶつ)できるのは、ソフト(自我(じが))ではなく、実体(じったい)のあるハード(無我(むが))の(ほう)なのです。つまり、自我(じが)無我(むが)とを分別(ぶんべつ)し、仏力(ぶつりき)無量寿(アミターバ))を体得(たいとく)したのちに仏智(ぶっち)仏心(ぶっしん)宿(やど)る、という順序(じゅんじょ)になります。

無我とは?

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