帰命とは?

帰命(きみょう)とは、自分(じぶん)自身(じしん)(いのち)帰服(きふく)帰還(きかん)帰結(きけつ)する(ぎょう)ですが、(よう)するに一心(いっしん)不乱(ふらん)身命(しんみょう)集中(しゅうちゅう)すること。そのとき、無量(むりょう)寿(じゅ)(ことぶき)が体得(たいとく)されます。この状態(じょうたい)親鸞(しんらん)は、「帰命(きみょう)無量(むりょう)寿(じゅ)如来(にょらい)」と表現(ひょうげん)されています。すなわち、帰命(きみょう)すれば無量(むりょう)寿(じゅ)(ごと)きが()る、と()いておられるのです。でも、帰命(きみょう)という意味(いみ)理解(りかい)しただけでは、無量寿(むりょうじゅ)()ることはできません。帰命(きみょう)()行動(こうどう)をとらないと、実感(じっかん)(あじ)わうことはできないのです。「(きょう)」という学科(がっか)(したが)い、「(ぎょう)」という実技(じつぎ)によって「(あかし)」が(あらわ)れ、そのとき疑念(ぎねん)()れて「(しん)」が確定(かくてい)します。

病弱(びょうじゃく)(うれ)い、無才(むさい)(なげ)き、容姿(ようし)不満(ふまん)()ち、苦悩(くのう)要因(よういん)が、ままならない肉体(にくたい)との認識(にんしき)なら、よもや、その不尊(ふそん)()帰命(きみょう)することは(しん)(がた)(おこな)(がた)行動(こうどう)です。窮地(きゅうち)()()まれた状況(じょうきょう)ならともかく、健常者(けんじょうしゃ)ならなおさら無理(むり)かも()れません。これを納得(なっとく)するためには、入門編(にゅうもんへん)にある自分(じぶん)とは(なに)か?(いのち)とはなにか?「自我(じが)」と「無我(むが)」との分別(ふんべつ)必要(ひつよう)です。

禅僧無量(むりょう)とは無限(むげん)()きることのない数量(すうりょう)寿(じゅ)とは、(よろこ)び、快楽(かいらく)安楽(あんらく)如来(にょらい)とは、ごとく、何々(なになに)のようだ。自分(じぶん)体内(たいない)()られる寿(じゅ)が、()(くに)浄土(じょうど))から来受(らいじゅ)する、という親鸞(しんらん)実体験(じつたいけん)()べられています。また、天親(てんじん)菩薩(ぼさつ)は、「帰命(きみょう)尽十方(じんじっぽう)無碍光(むげこう)如来(にょらい)」と(のこ)されています。帰命(きみょう)すれば、東西(とうざい)南北(なんぼく)前後(ぜんご)上下(じょうげ)左右(さゆう)、すなわち十方(じっぽう)すべての方向(ほうこう)から障害(しょうがい)なく(ひかり)のように()られる、と()かれているのです。

さて、帰命(きみょう)という行動(こうどう)ですが、会得(えとく)してみれば(きわ)めて簡単(かんたん)です。その難易度(なんいど)は、自転車(じてんしゃ)()程度(ていど)のレベルです。()れるようになるまでには少々(しょうしょう)練習(れんしゅう)()かせませんが、

  1. まず、()りたいという「意思(いし)」が必要(ひつよう)です。こけたら怪我(けが)をするかも()れません。あれこれ(かんが)えず、「よしっ」と決心(けっしん)して(まよ)いや恐怖心(きょうふしん)払拭(ふっしょく)したはずです。
  2. (よう)は、バランス「感覚(かんかく)」です。(まえ)(すす)速度(そくど)左右(さゆう)のバランス感覚(かんかく)をつかむわけですが、その瞬間(しゅんかん)はアドバイスや知識(ちしき)ではなく、自分(じぶん)自身(じしん)感覚(かんかく)集中(しゅうちゅう)するしかありません。
  3. つまり、「行動(こうどう)」を()こさない(かぎ)会得(えとく)はできません。
()れてしまえば無意識(むいしき)でも()れますので(むずか)しいという意識(いしき)はなくなります。ただし、「難中(なんちゅう)(なん)、これに()ぎたる(なん)()し」と()かれていることは(うたが)いようもない事実(じじつ)です。(わたし)自身(じしん)経験(けいけん)でも苦迷(くめい)8(ねん)。いよいよ本気(ほんき)なって3ヶ月(かげつ)月日(つきひ)がかかりました。この期間(きかん)(なが)いか(みじか)いかは、さておき、自分(じぶん)にとっては、やるせない途方(とほう)もない時間(じかん)(かん)じていたことは正直(しょうじき)気持(きもち)ちです。毎日(まいにち)毎日(まいにち)一生(いっしょう)懸命(けんめい)念仏(ねんぶつ)(とな)えても(なに)()るものがなく、精根(せいこん)()()て「もうダメだな」と、あきらめかけていた心境(しんきょう)(うそ)(いつわ)りはありません。意識(いしき)なか()で「自我(じが)」と「無我(むが)」を区別(くべつ)し、自我(じが)無我(むが)集中(しゅうちゅう)し、ただ無我(むが)だけを意識(いしき)している状態(じょうたい)になったとき、(おお)きな安楽(あんらく)ともいうべき「無量寿(むりょうじゅ)」「仏果(ぶっか)」「パワー」が体内(たいない)(はい)ってきたのです。この見性(けんしょう)体験(たいけん)(のち)は、「等正覚(とうしょうがく)」「不退転位(ふたいてんい)」と(しめ)されているような()(かた)になります。帰命(きみょう)()行動(こうどう)自由(じゆう)自在(じざい)(おこな)え、その都度(つど)無量寿(むりょうじゅ)()るという体制(たいせい)(さだ)まります。それは、この()にありながら、あの()弥陀(みだ))と交信(こうしん)しているような状態(じょうたい)で「憶念(おくねん)弥陀仏(みだぶつ)本願(ほんがん) 自然(じねん)即時入(そくじにゅう)必定(ひつじょう)」とも(しめ)されています。以後(いご)は、阿弥陀仏(あみだぶつ)(アミターバ:無量寿(むりょうじゅ))を()るという日常(にちじょう)(つづ)くようになります。(わたし)にとっては、帰命(きみょう)()行動(こうどう)は、()(くに)交信(こうしん)するという(てん)において、ラジオの周波数(しゅうはすう)、テレビのチャンネルを(あわ)わせるような行動(こうどう)です。

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