帰命とは、自分自身の命に帰服、帰還、帰結する行ですが、要するに一心不乱に身命に集中すること。そのとき、無量の寿(ことぶき)が体得されます。この状態を親鸞は、「帰命無量寿如来」と表現されています。すなわち、帰命すれば無量の寿の如きが来る、と説いておられるのです。でも、帰命という意味を理解しただけでは、無量寿を得ることはできません。帰命と言う行動をとらないと、実感を味わうことはできないのです。「教」という学科に従い、「行」という実技によって「証」が現れ、そのとき疑念が晴れて「信」が確定します。
病弱を憂い、無才を嘆き、容姿に不満を持ち、苦悩の要因が、ままならない肉体との認識なら、よもや、その不尊な身に帰命することは信じ難く行い難い行動です。窮地に追い込まれた状況ならともかく、健常者ならなおさら無理かも知れません。これを納得するためには、入門編にある自分とは何か?命とはなにか?「自我」と「無我」との分別が必要です。
無量とは無限。尽きることのない数量。寿とは、喜び、快楽、安楽。如来とは、ごとく、何々のようだ。自分の体内に得られる寿が、彼の国(浄土)から来受する、という親鸞の実体験が述べられています。また、天親菩薩は、「帰命尽十方無碍光如来」と残されています。帰命すれば、東西南北、前後上下左右、すなわち十方すべての方向から障害なく光のように得られる、と説かれているのです。
さて、帰命という行動ですが、会得してみれば極めて簡単です。その難易度は、自転車に乗る程度のレベルです。乗れるようになるまでには少々練習が決かせませんが、