念仏とは?

南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とは、どのような意味(いみ)で、また、それを(とな)えることでどのような利益(りやく)功徳(くどく)があるのか?

法然(ほうねん)上人(しょうにん)は「ただ南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)(とな)えれば(だれ)でも極楽(ごくらく)()まれることができる」と()かれました。親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、仏説(ぶっせつ)無量(むりょう)寿経(じゅきょう)の「至心信楽(ししんしんぎょう)」を引用(いんよう)され「(こころ)(いた)れば(らく)(しんじ)じることができる」。すなわち(しん)じる(こころ)完成(かんせい)すれば(らく)体得(たいとく)できると。また、蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)は「それ一流(いちりゅう)安心(あんじん)をとるといふも、(なん)のやうもなく、ただ(ひと)すぢに阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)(ふか)(たの)みたてまつるばかりなり。」と、仔細(しさい)なく念仏(ねんぶつ)(たの)みなさいと。(わたし)()法城(ほうじょう)師主(ししゅ)は「南無(なむ)(たの)めよ。そうすれば阿弥陀仏(あみだぶつ)(しめ)される」と説法(せっぽう)されました。

さてさて、どの法話(ほうわ)(うたが)余地(よち)など()いのでしょうが、()()ちません。心底(しんそこ)納得(なっとく)できないのです。(よう)するに、(わたし)にとっては「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と(とな)えても、功徳(くどく)はおろか(なん)変化(へんか)(かん)じられなかったのです。(たし)かに一時間(いちじかん)程度(ていど)念仏(ねんぶつ)(ぎょう)(おこな)えば、()(あせ)もかき、()によっては(なに)かしら充実感(じゅうじつかん)のようなものも()るにはありましたが、これと()った核心的(かくしんてき)成果(せいか)()つまでには(いた)らなかったのです。

南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)()(がた)いと(おも)い、散乱(さんらん)する内心(ないしん)(ひと)つにまとめ集中(しゅうちゅう)して念仏(ねんぶつ)(とな)えました。音程(おんてい)()え、音節(おんせつ)()え、(とき)音量(おんりょう)()えました。一時間(いちじかん)座行(ざぎょう)()え、一休(ひとやす)みをして、再度(さいど)挑戦(ちょうせん)もしました。しかし、結果(けっか)(こえ)()れ、疲労感(ひろうかん)とむなしさだけが(つづ)いていたのです。つまり、自分(じぶん)(おも)い、自分(じぶん)(ねが)い(自我(じが)意識(いしき))に集中(しゅうちゅう)していたのです。これは、我念仏(がねんぶつ)とも信罪福心(しんざいふくしん)とも(しめ)されています。我念仏(がねんぶつ)とは、「自我(じが)(たす)かりたい」と(ねが)念仏(ねんぶつ)信罪(しんざい)福心(ふくしん)とは罪福信心(ざいふくしんじん)ともいわれ、(つみ)である欲心(よくしん)(ふく)(てん)じようとする雑業(ぞうぎょう)です。(たす)かるハズもない、()るものもない修行(しゅぎょう)専念(せんねん)していたということになります。

ある()(わたし)師匠(ししょう)に「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とは、どういう意味(いみ)(たず)ねました。その(こた)えは意外(いがい)にも「『なむあみだぶつ』と平仮名(ひらがな)()いたらどういう意味(いみ)になるか?」と(ぎゃく)()かれたのです。禅問答(ぜんもんどう)のような情景(じょうけい)ですが、(こた)えはそれ以上(いじょう)でもそれ以下(いか)でもなく、(わたし)困惑(こんわく)し、途方(とほう)()れるしかありませんでした。

南無(なむ)は、古代(こだい)インドのサンスクリット()のナモーで帰命(きみょう)阿弥陀仏(あみだぶつ)はアミターバで無量(むりょう)光明(こうみょう)という意味(いみ)。こう説明(せつめい)されると、おそらく、では帰命(きみょう)とは?無量(むりょう)光明(こうみょう)とは?と()きたくなります。(よう)は、無量(むりょう)光明(こうみょう)体得(たいとく)して(()べて)みないとわからないのです。体得(たいとく)とは、(からだ)()ると()きますが、知識(ちしき)()るとは()きません。その手法(しゅほう)のひとつが、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と(とな)える念仏(ねんぶつ)、あるいは、呼吸法(こきゅうほう)実行(じっこう)することなのです。

浄土(じょうど)真宗(しんしゅう)(おし)えには、(さと)りを()(もの)、あるいは、(さと)りを()境地(きょうち)を「等正覚(とうしょうがく)」とも「不退転位(ふたいてんい)」とも(しめ)されています。「等正覚(とうしょうがく)にいたる(ひと) すなわち弥勒(みろく)(おな)じくて」とありますが、等正覚(とうしょうがく)にいたる(ひと)とは、アミターバを体得(たいとく)する手法(しゅほう)自分自身(じぶんじしん)(なか)確立(かくりつ)できた(ひと)のことです。その(くらい)は、二度(にど)(ふたた)(もと)の(苦悩(くのう)()ちた)(くらい)逆戻(ぎゃくもど)りすることはありません。アミターバは無尽蔵(むじんぞう)無量(むりょう))です。アミターバが()られることで、()(くに)極楽(ごくらく)浄土(じょうど))が実在(じつざい)する確証(かくしょう)()てるのです。確証(かくしょう)すれば、(かなら)極楽(ごくらく)往生(おうじょう)する確信(かくしん)()てきます。そうなれば弥勒(みろく)菩薩(ぼさつ)(おな)(くらい)にあるわけです。

一説(いっせつ)によると、この(さと)りを()(もの)()確率(かくりつ)百千万劫難遭遇(ひゃくせんまんごうなんそうぐう)()われいます。一劫(いっこう)が43(おく)2000万年(まんねん)であるとすれば、その百倍(ひゃくばい)千倍(せんばい)万倍(まんばい)一度(いちど)確率(かくりつ)ということですから、もはや(かぎ)りなくゼロに(ちか)いことになります。しかも、その(さと)りを()(もの)()ったとしても、その(さと)りを(さず)かれる(ひと)万千百一十(まんせんひゃくいちじゅう)とありますので、一万人(いちまんにん)一人(ひとり)十人(じゅうにん)千人(せんにん)一人(ひとり)十人(じゅうにん)、あるいは百人(ひゃくにん)一人(ひとり)十人(じゅうにん)()かれています。

念仏の唱え方

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