なぜ、虐待は起こるのか?

文明社会が抱える多くの問題、なかでも自殺、虐待、うつ病など、これらがなぜ起こるのか、そのメカニズムについて論理的で明快な記述を見たことがありません。しかし、真実を知ることによって、これらが健常者と同床異夢の迷走状態、つまり、その多くが自ら招いた因果応報であることが明らかとなります。

すでに、自我と無我との分別の必要性については述べました。この自我が求める生き方、それが主因で、その結果として自殺・虐待・うつ病などが現れているのです。とは言っても広範囲なテーマが一元的な論理に収斂(集約)されている訳ですから、なかなか得心できないかも知れません。

そこで、やはり、最初の第一歩は、自我と無我の区別が基本となります。この分別なくして、この法は理解することはできません。ですから、呼吸や心臓が自分の意志や知識に従って活動をしていない、最低でも、それだけは認識する必要があります。もちろん、感情の高ぶりなどで脈拍数は変化し、呼吸の一時的な停止はできるとしても、睡眠中のようにほとんどは無意識に動いています。その無意識に動いている無我体に、王様のように君臨しているのが自我(自分の意識)ということになります。

結論から申し上げると、自我の思いのままに無我が動いているうちは良いのです。これが、自我の思いにならないとき、すなわち望みや夢、欲望が叶わないとなると、無我は自我から責めを負うことになります。つまり、夢や希望が達成できないのは、自分の身が下等で低能だからと卑下し、見下してしまうのです。これは、ちょうど王様と奴隷の関係に似ています。王は元気で従順な奴隷は重宝します。反面、意に沿わないときには鞭打ち酷使もしますが、使い物にならないとなると廃品のように捨て去ります。けれども、自我は、如何に気に食わないとはいえ、無我なしには存在すらできません。また、他人の体に乗り換えることもできないのです。

結局のところ、現世から来世へと生きることができるのは「自我」ではなく、「無我」である命の方なのです。それにもかかわらず、この世でしか生きられない自我が幸せを求めて生きようとする姿。これを否定することはできませんが、まず、無我を優先して生きて欲しいのです。そうでない生き方は無理筋ですから、詰まる所、もがき、苦しみ、悩みとなって現れるほかないのです。こう申し上げると世の知識人からは、自己否定、悲観思想、カルトだと、お叱りを受けるかも知れません。でも、過去の九安の生き方「自我を生きる」延長線上には、解決策も安らぎもないことは明らかです。まず、無我を生き、後顧の憂いである「死後の不安」をなくします。そして、その次に自我にとっての喜びがある、これが九安の継承した浄土の教えです。また、これでこそ苦労のし甲斐もあるというものです。

もし、自我と無我の分別に成功すれば、過去の自我の生き方で、如何に栄耀栄華を極めたとしても、それは所詮「砂上の楼閣」に過ぎないことが自覚できるでしょう。同時に、浄土門と聖道門との差異、ひいては他力本願の本質をも明白な論理とし認識できるようになります。

ここで、自我とは、いかなるものか?その一端を見つめてみます。

  1. 仕事がしたくない。
  2. 食事を作るのは面倒だ。
  3. 人間は、どうせ、いつかは死ぬのだから
  4. ……

誰でも思う正直な気持ちと言えば、叱られるかも知れません。しかし、この込み上げてくる心。打消し用もないこの心こそ、よもや迷いだとは気づく由(よし)もなかったのです。自分の身を養うための仕事が嫌なのですから、他人はもちろん、我が子であっても世話をするのが面倒になるのは当たり前。もし「生きてるばっかりに……」と本末転倒の思いが定着すれば、もはや、人の道には戻れなくなります。「仕事に行きたくない」「気が進まない」と思いがよぎれば、「いやいや、そうではない。元気で生きているからこそ、働ける。我が身の健康に感謝し、喜んで働かなくちゃ……」と思い直して軌道を修正しています。

自分の食べることさえ面倒なのに、どうして他人の食事が作れるでしょうか?「食べることが無ければ良いのに……」との思いが出れば、「食べるから生きているのではなく、生きているからこそ、食べられる。食べるために働くのではなく、来世に生きるために食べ、働くのだ。仕方なく嫌々するのではなく、喜んで準備をするべきではないか」と自らの心を戒めます。

ここで大切なのは、「ただ単に思いを変え、気分転換をしているだけではない」という点です。もし、疑念なく心の底から同意し、行動ができたとき、無気力で重々しい心境から、すっきりと軽やかな身と心に変化する事象を経験して欲しいのです。すなわち即身成仏を実践し、「身に添う心」によって「仏果」を得ることができるのです。

「人は、いつかは死ぬ」という定めから逃れることはできません。この事実は、自我にとって「生まれてから死」までが人生設計の基本となります。要するに、自我にとっては、人身は必ず壊れる乗り物のようなモノでしかありません。いわば、ゴールの決まったレースに参加した以上、有効期間は限定的です。特に現世主義が高じた現代において、人並み、あるいは、人並み以上の生活を望むなら習得すべき知識や技術は高度化し、習得時期も増々低年齢化するのが必然の流れとなります。誰もが信心深く、来世の存在を信じて疑わなかった時代には、「この世は仮の宿」ととらえ、ゆったりしたものでした。時代が逆行することがないとしたら、大競争社会においては、人身は、より大きな重荷を背負うことになります。そうなら、なお一層のこと、真実を見つめ、真実を生き抜いて欲しいのです。

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