仏法を体得するためには、何が必要でしょうか?
九安は自ら浅学非才の愚者と認めています。それは、謙遜しているのではなく、崇高な経典を読破するだけの能力もありません。しかし、難解な仏典を読んでも、読むだけでは悟りの境地に達する事はできません。また、暗記してもしかりです。私自身も、ここにあれこれ記述していますが、それは読者の思考に留まる「きっかけ」となることを期待しているからです。要はただの一節、もしくは、一語からでも仏法は体得できるです。ひたすら多くを学び、他の学問のように知識を蓄えるのではなく、つまり、頭で考えるのではなく、教えに従い、行動をとることが大切で必要なのです。
私自身、南無阿弥陀仏と唱える念仏行を何年も続けました。今でも朝晩可能な限り続けていますが、当初は得るものも無く、行の結果(仏智仏力)を得ることができませんでした。力の限り、声の枯れるほどの念仏行も、その甲斐無く、むなしい過去を持っています。
万策尽き、ほぼあきらめかけていたそのとき、教えられた呼吸法に順応した瞬間に体得できたのです。私利私欲、邪悪な心はもちろんですが、自尊心、自信過剰、求道意欲、探究心、それら良心とも思えることごとくの自我が障害となっていたとは、皮肉な話です。つまり、自我を無心の状態に静止すること。そこまでの道のりが長かったのです。 正信偈の最初の一語「帰命」こそ、最初で最後の教えであったとは。帰命とは、命(自身=無我体)に自我を帰結(集中・依存)する行(行動)なのです。その行が一心不乱に正しく決行されたとき、その瞬間に無量の寿(喜び)が自身に満ちあふれて来ます。身に満ちあふれる力と楽によって心も浮かれ立つのです。