見性体験(けんしょうたいけん)とは、性(真理、真如、真実)を見た経験、つまり、悟りを得た瞬間の有り様。「言う者は知らず、知るものは言わず」、また、千聖不伝(せんしょうふでん)と言われるように、悟りを伝えることは困難を極めます。また、私の体験が、そのまま、読者(求道者)の修行に適合するとも限りません。ややもすると誤ってお受け止めになる可能性もあります。しかし、ここでは伝授された内容とともに、敢(あ)えて実体験を表明しています。そんなものなのか……と受け止めて下さればと思います。
(1)釈迦の見性体験
「難行苦行の果てに道端で倒れていたとき、通りすがりの女から、もらって飲んだヤギの乳の味。悟りとは、そのようなもの。」と聞きました。おそらく身も心も疲れ空腹だったので、有り難くて美味しかったのでしょう。
(2)空海の見性体験
高知県室戸岬御厨人窟(みくろど) で修行中、「明けの明星が入って来た。」と聞いています。千年以上も前のことですから、体に得たモノ(力)は、夜明けの金星から届いたと思われたのでしょう。
(3)親鸞の見性体験
帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)と説かれています。帰命すれば、無限の寿(喜び)のようだ。
(4)蓮如の見性体験
摂取(せっしゅ)の光明にあひたてまつる時剋(じこく:瞬間)をさして、信心の定まるとは申すなり。 つまり、仏の光を受けた瞬間に悟りは得られると断定されています。私は歴史家ではありませんので史実については良くわかりませんが、これらに共通する事は、すべてが体感値を表現している点です。要は、書物などで学んだ知識ではなく、みずからの経験を語っているのです。
(5)九安の見性体験
呼吸法によって無我と自我を明確に分別し、自我が無我に100%集中したとき、彼の国(浄土)から仏力(パワー)が入って来ました。微妙なパワーでしたが、私にとっては太陽光より強く、寒さの中で受ける春一番の暖かい春風のようでもあり、体全体がスーッと楽になり軽くなって浮き上がるような体験でした。もちろん、そのような経験は初めてで身も心も、まさに有頂天(うちょうてん)になりました。以後、その経験を日常的に繰り返し続けています。つまり、知識を得たのではなく、空腹になれば食事をするように、仏力(命が楽になるエネルギー:自らの命を仏性に育む力)を得る手法を得たのです。