前提

仏法(ぶっぽう)(つた)えるためには「(ただ)しい言葉(ことば)使(づか)い」が()かせません。しかし、この言葉(ことば)というものは、時代(じだい)変遷(へんせん)する(なか)本来(ほんらい)意味(いみ)とは(ちが)ったり、(ひと)によっては(うけ)()(かた)(こと)なったりします。

たとえば、以下(いか)語句(ごく)には解釈(かいしゃく)仕方(しかた)使(つか)(かた)(あやま)りが()られます。日常(にちじょう)のコミュニケーションにおいては(こま)らないかも()れませんが、本当(ほんとう)意味(いみ)(ただ)しく(つた)わらないと(かえ)って(なや)むことになります。ここでは、仏教(ぶっきょう)用語(ようご)をことさら理解(りかい)したり、暗記(あんき)したりすることが目的(もくてき)ではありませんので、「(ただ)しい言葉(ことば)使(づか)い」の必要性(ひつようせい)認識(にんしき)してください。

  • 運命(うんめい)

    運命(うんめい)という言葉(ことば)は、本人(ほんにん)努力(どりょく)意思(いし)によっても左右(さゆう)されない(こう)不幸(ふこう)(めぐ)()わせ。あるいは、()まれながら(あらかじ)()まっている(さだ)めのように使(つか)われています。仏教(ぶっきょう)本来(ほんらい)意味(いみ)は、この()現世(げんせ)」からあの()来世(らいせ)」へ、()いかえれば「彼岸(ひがん)」すなわち「極楽(ごくらく)浄土(じょうど)」へ(いのち)(はこ)ぶということです。
  • 他力(たりき)本願(ほんがん)

    他力(たりき)本願(ほんがん)は、自分(じぶん)努力(どりょく)(おろそ)かにしたり、自分(じぶん)(ちから)(およ)ばないとき、他人(たにん)結果(けっか)によって目的(もくてき)達成(たっせい)されるような場合(ばあい)(もち)いられています。(したが)って、あまり肯定的(こうていてき)意味(いみ)では使(つか)われていません。他力(たりき)とは、自分(じぶん)(ちから)ではない()(ちから)本願(ほんがん)とは、()まれてきた(もと)根本(こんぽん)(いのち))を(ねが)う、という意味(いみ)です。つまり、他力(たりき)(ほとけ)(いのち))へ自分(じぶん)(いのち)(ねが)う、という行動(こうどう)修行(しゅぎょう))を表現(ひょうげん)しています。
    具体的(ぐたいてき)には、仏力(ぶつりき)自分(じぶん)体内(たいない)()()み、自分(じぶん)(いのち)仏性(ぶっしょう)へと(はぐく)む「(ぎょう)」を意味(いみ)します。たとえば、()まれたばかりの(あか)ちゃんは母乳(ぼにゅう)によって生育(せいいく)しますが、自分(じぶん)(ちから)、すなわち自力(じりき)だけでは成仏(じょうぶつ)できないので他力(たりき)、または、絶対(ぜったい)他力(たりき)とも(しょう)されています。
  • 生命(せいめい)

    社会的(しゃかいてき)生命(せいめい)(うしな)うとか、政治(せいじ)生命(せいめい)選手(せんしゅ)生命(せいめい)()けるとか()いますが、このときの生命(せいめい)は、その(ひと)の「(ひと)としての()()ち:アイデンティティ」ではないでしょうか。でも、仏教(ぶっきょう)でいう生命(せいめい)は、呼吸(こきゅう)心臓(しんぞう)などの自立(じりつ)神経(しんけい)によって活動(かつどう)している(からだ)全体(ぜんたい)。「自我(じが)(イコール)意識(いしき)以外(いがい)自然体(しぜんたい)無我(むが))を()します。

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