楽になりたい
  • すでに諸薬(しょやく)(こう)なく、もはや(しん)じる(もの)(たよ)(もの)もなくなった(ひと)にとって、ここは「最後(さいご)(とりで)」、「()()(でら)」となるでしょう。(くる)しい、(つら)い、不安(ふあん)(おそ)ろしい、(かな)しい、(むな)しい、でも、(らく)になりたい。もしそうなら、理屈(りくつ)(あと)(まわ)しにして、(つぎ)行動(こうどう)をお()りください。

    呼吸法(こきゅうほう)

    1. 禅僧(いき)をしっかり()
    2. (いき)()
    3. (いき)(のこ)らず()
    4. (いき)()
    5. (いき)自然(しぜん)()
    6. (いき)自然(しぜん)()
    7. ()うと()くだけを意識(いしき)して呼吸(こきゅう)(つづ)ける

    自然(しぜん)呼吸(こきゅう)(つづ)けるとき、自分(じぶん)意識(いしき)のすべてを呼吸(こきゅう)集中(しゅうちゅう)します。どれくらいの時間(じかん)回数(かいすう)継続(けいぞく)できるでしょうか?(()れるまで、いーち、にーい、さーんと、(かず)(かず)えても()い。姿勢(しせい)は、(とく)()まりはありません。(よこ)になったままでも(かま)いません。)

    色々(いろいろ)(こと)(あたま)()()かび、なかなか集中(しゅうちゅう)できないかも()れません。でも心配(しんぱい)いりません。それが普通(ふつう)(ひと)です。集中(しゅうちゅう)できなくなりましたら、(すこ)(やす)んで、また、①から(はじ)めてください。()れてきて、要領(ようりょう)がつかめたら⑦から集中(しゅうちゅう)できるようになります。もちろん、(くる)しくなったら中止(ちゅうし)しますが、(こころ)()()くようなら見込(みこ)みがあります。これだけでも十分(じゅうぶん)です。(あつ)くなったり、(せき)がでたり、むせたりするようなこともありますが、これらの変化(へんか)()()兆候(ちょうこう)です。(からだ)がすっきりしたり、(かる)(かん)じたり、(らく)になるように(かん)じたら大成功(だいせいこう)理屈(りくつ)はあとから。(ふか)(つよ)(なが)集中(しゅうちゅう)できるように(つづ)けてください。苦難(くなん)元凶(げんきょう)として()()()めるのではなく、自然(しぜん)(おこな)われている心肺(しんぱい)活動(かつどう)感謝(かんしゃ)敬服(けいふく)できれば、効果(こうか)倍増(ばいぞう)します。()きていればこそ(すく)われます。

    起死(きし)回生(かいせい)

    現代(げんだい)医学(いがく)でも(なお)らない「(やまい)」や「(なや)み」を仏教(ぶっきょう)(なお)すことができるなんて、とても(しん)じられないことですが、(じつ)のところ(なお)すことより(しん)じることの(ほう)(むずか)しいのです。それは智者(ちしゃ)である医師(いし)より、()もない愚者(ぐしゃ)九安(きゅうあん)(しん)じることを意味(いみ)しますから当然(とうぜん)のことかも()れません。でも、よくぞ、()きて、ここへ()てくれました。疑念(ぎねん)()て、(ただ)しく(おこな)えば(かなら)(らく)になります。

  • なぜ効果(こうか)があるのか?

    この呼吸法(こきゅうほう)成功(せいこう)すれば、苦悩(くのう)緩和(かんわ)したり、消滅(しょうめつ)したり、健康体(けんこうたい) なら(やす) らぎや心地(ここち) ()(らく)(かん) じたりします。つまり、その体験(たいけん)獲得(ぎゃくとく)であり、収穫(しゅうかく)であり、無量寿(むりょうじゅ) です。呼吸法(こきゅうほう)(とお)して、仏法(ぶっぽう)という(ちから)(パワー/エネルギー/生命力(せいめいりょく))を継続的(けいぞくてき)体内(たいない)()()むことができれば自然(しぜん)治癒(ちゆ)して()きます。外科(げか)手術(しゅじゅつ)のような即効性(そっこうせい)はないのですが、(あか)ちゃんが自然(しぜん)成長(せいちょう)するような速度(そくど)ですから、(はや)(おお)きくなって()しいからといって沢山(たくさん)()べても成長(せいちょう)速度(そくど)あまり()わりません。(みず)、おやつ、食事(しょくじ)のように(感謝(かんしゃ)しながら)いただくのが効果的(こうかてき)です。あなた(いのち)仏性(ぶっしょう)(はぐく)まれる過程(かてい)(なか)で、あなたの(こころ)肉体(にくたい)健全化(けんぜんか)し、知力(ちりょく)体力(たいりょく)、つまり、生命力(せいめいりょく)増強(ぞうきょう)された(あかし)としてもたらされるのです。

  • こんな簡単(かんたん)方法(ほうほう)で?

    南無(なむ)阿弥陀(あみだ)(ぶつ)(とな)えれば(だれ)でも(すく)われる」と()かれたのは法然(ほうねん)上人(しょうにん)(1133~1212年)ですが、その(おし)えは中国(ちゅうごく)善導(ぜんどう)大師(だいし)(613~681年)に(はじ)まります。南無(なむ)阿弥陀(あみだ)(ぶつ)(とな)えるのも、呼吸法(こきゅうほう)(こころ)みるのも、簡単(かんたん)すぎて物足(ものた)りないかも()れません。

    伝承(でんしょう)によれば法然(ほうねん)は、一日(いちにち)数万回(すうまんかい)念仏(ねんぶつ)(とな)えたとあります。また、禅寺(ぜんでら)(はじ)めて座禅(ざぜん)をする(さい)には、最初(さいしょ)数日間(すうじつかん)は、雑念(ざつねん)()てとても呼吸法(こきゅうほう)集中(しゅうちゅう)できない、と()きました。そうなら一気(いっき)にハードルは(たか)くなりますが、――(わたし)場合(ばあい)は、自尊心(じそんしん)(つよ)素直(すなお)()れなくて、(なが)(あいだ)とても辛苦(しんく)をしましたが、(いま)では――(むずか)しいことでもなく、「(だれ)でも(すく)われる」教示(きょうじ)(うたが)余地(よち)(まった)くありません。

  • 南無(なむ)のひと(こえ)

    本願寺(ほんがんじ)第八代(だいはちだい)宗主(そうしゅ)蓮如(れんにょ)上人(しょうにん)(1415~1496年)と「一休(いっきゅう)さん」こと臨済宗(りんざいしゅう)一休(いっきゅう)禅師(ぜんじ)(1394~1481年)とは、仏法(ぶっぽう)について(たが)いに(みと)()間柄(あいだがら)であったようで、(つぎ)のような逸話(いつわ)(のこ)されています。

    一休(いっきゅう)
    浄土(じょうど)十万億土(じゅうまんおくど)なら、足腰(あしこし)()たない老婆(ろうば)()けないだろう
    蓮如(れんにょ)
    近道(ちかみち)すれば、南無(なむ)のひと(こえ)

    浄土(じょうど)三部経(さんぶきょう)()かれている極楽(ごくらく)浄土(じょうど)は、十万億土(じゅうまんおくど)途方(とほう)もない(とお)いところだから、足腰(あしこし)(よわ)った老婆(ろうば)()けないのではないか、と()われたのに(たい)して、南無(なむ)阿弥陀(あみだ)(ぶつ)(とな)える近道(ちかみち)なら「南無(なむ)」のひと(こえ)()けます、と(こた)えています。

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