すでに諸薬の効なく、もはや信じる者も頼る者もなくなった人にとって、ここは「最後の砦」、「駆け込み寺」となるでしょう。苦しい、辛い、不安、恐ろしい、悲しい、虚しい、でも、楽になりたい。もしそうなら、理屈は後回しにして、次の行動をお執りください。
⑦自然に呼吸を続けるとき、自分の意識のすべてを呼吸に集中します。どれくらいの時間や回数を継続できるでしょうか?(慣れるまで、いーち、にーい、さーんと、数を数えても良い。姿勢は、特に決まりはありません。横になったままでも構いません。)
色々な事が頭の中に浮かび、なかなか集中できないかも知れません。でも心配いりません。それが普通の人です。集中できなくなりましたら、少し休んで、また、①から始めてください。慣れてきて、要領がつかめたら⑦から集中できるようになります。もちろん、苦しくなったら中止しますが、心が落ち着くようなら見込みがあります。これだけでも十分です。熱くなったり、咳がでたり、むせたりするようなこともありますが、これらの変化は効き目の兆候です。体がすっきりしたり、軽く感じたり、楽になるように感じたら大成功。理屈はあとから。深く強く長く集中できるように続けてください。苦難の元凶として我が身を責めるのではなく、自然に行われている心肺活動を感謝や敬服できれば、効果は倍増します。生きていればこそ救われます。
現代医学でも治らない「病」や「悩み」を仏教が治すことができるなんて、とても信じられないことですが、実のところ治すことより信じることの方が難しいのです。それは智者である医師より、名もない愚者・九安を信じることを意味しますから当然のことかも知れません。でも、よくぞ、生きて、ここへ来てくれました。疑念を捨て、正しく行えば必ず楽になります。
この呼吸法に成功すれば、苦悩が緩和したり、消滅したり、健康体 なら安 らぎや心地 良い楽 を感 じたりします。つまり、その体験が獲得であり、収穫であり、無量寿 です。呼吸法を通して、仏法という力(パワー/エネルギー/生命力)を継続的に体内に取り込むことができれば自然に治癒して行きます。外科手術のような即効性はないのですが、赤ちゃんが自然に成長するような速度ですから、早く大きくなって欲しいからといって沢山食べても成長速度あまり変わりません。水、おやつ、食事のように(感謝しながら)いただくのが効果的です。あなた命が仏性に育まれる過程の中で、あなたの心と肉体が健全化し、知力と体力、つまり、生命力が増強された証としてもたらされるのです。
「南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも救われる」と説かれたのは法然上人(1133~1212年)ですが、その教えは中国の善導大師(613~681年)に始まります。南無阿弥陀仏と唱えるのも、呼吸法を試みるのも、簡単すぎて物足りないかも知れません。
伝承によれば法然は、一日数万回も念仏を唱えたとあります。また、禅寺で初めて座禅をする際には、最初の数日間は、雑念が出てとても呼吸法に集中できない、と聞きました。そうなら一気にハードルは高くなりますが、――私の場合は、自尊心が強く素直に成れなくて、長い間とても辛苦をしましたが、今では――難しいことでもなく、「誰でも救われる」教示を疑う余地は全くありません。
本願寺第八代宗主の蓮如上人(1415~1496年)と「一休さん」こと臨済宗一休禅師(1394~1481年)とは、仏法について互いに認め合う間柄であったようで、次のような逸話が残されています。
浄土三部経に説かれている極楽浄土は、十万億土と途方もない遠いところだから、足腰の弱った老婆は行けないのではないか、と言われたのに対して、南無阿弥陀仏と唱える近道なら「南無」のひと声で行けます、と答えています。