如来とは?

如来(にょらい)とは「()るが(ごと)し」と()かれています。結論(けつろん)から(もう)()げますと「仏力(ぶつりき)仏光(ぶっこう))が放射(ほうしゃ)される(とうと)仏身(ぶっしん)。その仏力(ぶつりき)()()状態(じょうたい)」を表現(ひょうげん)しています。(まさ)しく仏教(ぶっきょう)体得(たいとく)している状態(じょうたい)ですが、その(くらい)二度(にど)(ふたた)(もと)(くる)しく(まよ)(まど)世界(せかい)()ちることはないので「不退転位(ふたいてんい)」と(しめ)されています。

阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)は、阿弥陀(あみだ)――サンスクリット語のアミターバ:無量寿(むりょうじゅ)――が来るが如し。薬師(やくし)如来(にょらい)は、医師(いし)薬剤師(やくざいし)が来るが如し。大日(だいにち)如来(にょらい)なら太陽が来るが如しなど。つまり、仏法を獲得(ぎゃくとく)、または、体得(たいとく)、もっと分かりやすく言うなら見たり聞いたりすのではなく、「食べた」とき、その体感値(たいかんち)を表しています。従って、もし一度でも、その味を知れば必然的(ひつぜんてき)常態化(じょうたいか)する行動(こうどう)になります。(憶念(おくねん)弥陀仏(みだぶつ)本願(ほんがん) 自然(じねん)即時入(そくじにゅう)必定(ひつじょう)

諸説(しょせつ)によりますとサンスクリット()の「tathagata:タターガタ」を「如来(にょらい)」と漢訳(かんやく)したものとあります。また、真理(しんり)(さと)体現(たいげん)到達(とうたつ)した(もの)への尊称(そんしょう)との記述(きじゅつ)もありますので、「阿弥陀(あみだ)如来(にょらい)」は「阿弥陀(あみだ)(さま)」、「釈迦(しゃか)如来(にょらい)」は「お釈迦(しゃか)(さま)」ということなります。しかし、語意(ごい)(あきら)らかにしただけでは、その実態(じったい)(つか)めません。やはり、体得(たいとく)という「仏力(ぶつりき)体内(たいない)()て」はじめて納得(なっとく)でき、疑念(ぎねん)(はく)れるというものです。

科学(かがく)万能(ばんのう)時代(じだい)にあっては、嘲笑(ちょうしょう)はおろか軽蔑(けいべつ)されても仕方(しかた)のない稚拙(ちせつ)説法(せっぽう)ですが、体得(たいとく)経験(けいけん))した(もの)にしか(かた)れません。千年(せんねん)以上(いじょう)過去(かこ)にも、すでに「不可称(ふかしょう)不可説(ふかせつ)不可思議(ふかしぎ)――証明(しょうめい)説明(せつめい)(かんが)えも()ばない――」とも「易往(いおう)而無人(むにん)――往生(おうじょう)容易(ようい)だが、そこに(ひと)なし――」とも(のこ)されているとおりです。

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