仏法体得への道筋は、一定の手順が決まっている訳ではありません。また、どの方法が優れているのか、それも検証は不可能と思われます。ここでは、僭越ながら愚拙の経験(修行)を元に解説しています。
知らない土地では、誰でも一度や二度は、道を尋ねたことがあるでしょう。たとえば、自分では右と思っていても、不安なら相手が見知らぬ他人であっても確認します。そこで、もし、意に反して左方向を告げられたら……。気乗りはしないものの信じて左に行くしかありません。つまり、自分の考えは控え、他人の指示に従い行動するしかないハズです。でも、目的地が見えた瞬間、それまでの不安や疑念は消え去ります。要は、着いたらわかりますので「行動が先」ということです。
自我とは自分の知恵と心。無我とは自分の肉体。この自我と無我が、両立している事実を明確に認識すること。これこそが愚拙九安の説く仏法体得の前提条件となります。仮に自我が生きたいと思っても、その意に反し肉体は死ぬこともあります。また、自我が死にたいと思っても、思っただけでは死ぬことはできません。自我の意思で死を望のぞむなら無我である生命活動を停止する行動が必要です。つまり、不可分とも思える自我と無我は、別物であることがわかります。それは、ちょうどコンピュータのソフトとハードの関係と良く似ています。今日では、ソフトであるプログラムやデータが重要視され、ハードであるCPU、メモリ、ハードディスクは部品として、ある意味消耗品化されています。しかし、仏教を体得し成仏できるのは、ソフト(自我)ではなく、実体のあるハード(無我)の方なのです。つまり、仏身が成就したのち仏智・仏心が宿る、という順序になります。
師より「息の確認」という行動を伝授されました。この行動は呼吸法とも呼ばれています。自分の息(呼吸)は、自我の行いなのか、あるいは無我(肉体)が自然に行っているものか。呼吸は、一時的には自分でも意識的に行えますが、普段は自律神経の元で無意識に続いています。要は、自我と無我の分別を知識として持つのではなく、修業として継続すること、なのです。(が、誰でも知ってる「ちゃち」で幼稚と思える指導に、いささかも従う気にはなれません。そもそも仏教とは関係のない、悟りとは程遠い事柄のように感じていました。それから8年もの歳月が過ぎ、師を失い落胆の中、兄弟子からの指示を受け、万策尽き最後の手段として従ったのです。)
心を落ち着かせ、分別した自我を無我に集中させます。呼吸運動に全神経を一心不乱に集中します。心の動きを100%静止することに成功すれば、この時、無量寿(生命力:楽)が体内に入ってきます。この現象を親鸞聖人は、正信念仏偈の冒頭で「帰命無量寿如来」と示されています。すなわち、「命に帰すれば無量の喜びのごとくなり」という体得経験です。また、インドの天親菩薩は、帰命尽十方無碍光如来。帰命すれば、すべての方角・場所で障害となるものはなく、光のようだ。さらに、中国の曇鸞大師は南無不可思議光如来。南無と帰依すれば、不可思議な光のごとく、と説かれています。
自我を無我に集中した状態は、「我あって我なき」思考停止の状態、ただ一心に無我を意識している状態です。これを帰命とも南無とも表されていますが、結局のところ、その行動(行)が正しいかどうかは、体内に得たものがあるかないか、それが判断の根拠・証となります。
さらに、錯乱する自我を統一するためには、息を確認しながら手首の脈拍から心臓の鼓動をも感知することもあります。自分の意志とは無関係(不随意)に活動する生命の営みに深く強く繰り返し集中します。
この体験は、禅の世界では見性体験とも言われています。この後は、不退転の位に永住することができるようになります。二度と再び元の世界には戻ることはありません。しかし、このことも外見上から他人に判別することは困難です。過去と同じような生活スタイルですが、内面的には自我と無我との主従関係が逆転した状態で生きて行くようになります。これが悟りの境地と言えるのですが、なかなかもって共感する人もなければ信じてくれる人もありません。大切なことは、自我が主人で無我が奴隷のような生き方から、無我が主人で自我が助っ人の関係へと正常化する訳です。つまり、命が来世に誕生することを目的に生きて行くようになります。
この世では、自分の誇り、名誉、あるいは、夢のために、自らの命をかけて生きる人は尊敬されるべき人かも知れません。また、自分の利害はさておき、世のため人のために生きる人も敬意に値するでしょう。でも、それは、自分にとっても他人にとっても、結局それぞれの自我を満足させることに過ぎません。世の中の常識は、そうあるべきで、それで良いのかも知れません。もちろん、過去の九安も、その道だけに生きていたのです。しかし、自我は、この世では生きていられますが、死後は生きられないばかりか、消滅してしまいます。そのことは、残念ながらこの世に生まれたばかりの赤ちゃん、認知力のなくなった老人を見れば明らかです。
「命を生きるために自我を投げ打つ」とは、今生きている生命を来世に誕生するために、自我の満足だけを目標に生きることを改めるということです。すなわち、自我の満足から命の満足(来世誕生)を求めるて生きるのです。投身という言葉がありますが、修行中は投心と書くべきです。
頭の中では、自我と無我との分別がつくかも知れません。それでは、自我にとって無我(肉体)は、どのような存在なのでしょうか?お体を大切に、とか、御身ご自愛ください、とは言うものの実に哀れな扱いです。この頭がもっと優秀なら、この顔やスタイルがもっと良ければ、もっと若ければ、、、と知らず知らず愚痴や不平不満の対象となっているのではないでしょうか?鏡に映った自分の姿に対し、どのような思いが込み上げてくるか、是非とも静観して欲しいのです。そこで、仮に不満がないとしても、その身に対して感謝、敬服、歓喜の気持ちがないとしたら、その身は唯の道具としての扱いにほかなりません。つまり、使えるだけ使って、使えないとなると捨ててしまいかねない粗末な扱いなのです。でも、これほど緻密で高度で優秀な人体ほどの生物や機械はないハズです。自然環境は大切に守らなければなりませんが、この人体以上にかけがえのない、大切な自然はありません。どうか、鏡の中の肉体が喜べるまで、このような粗雑な扱いに謝罪ができるまで、見つめ直して欲しいのです。人間と言う尊き生命体、「受け難き人身」に気づいて欲しいのです。