体得の手順

仏法(ぶっぽう)体得(たいとく)への道筋(みちすじ)は、一定(いってい)手順(てじゅん)()まっている(わけ)ではありません。また、どの方法(しゅほう)(すぐ)れているのか、それも検証(けんしょう)不可能(ふかのう)(おも)われます。ここでは、僭越(せんえつ)ながら愚拙(ぐせつ)経験(けいけん)修行(しゅぎょう))を(もと)解説(かいせつ)しています。

  1. (みち)(たず)ねるとき

    ()らない土地(とち)では、(だれ)でも一度(いちど)二度(にど)は、(みち)(たず)ねたことがあるでしょう。たとえば、自分(じぶん)では(みぎ)(おも)っていても、不安(ふあん)なら相手(あいて)見知(みし)らぬ他人(たにん)であっても確認(かくにん)します。そこで、もし、()(はん)して(ひだり)方向(ほうこう)()げられたら……。気乗(きの)りはしないものの(しん)じて(ひだり)()くしかありません。つまり、自分(じぶん)(かんが)えは(ひか)え、他人(たにん)指示(しじ)(したが)行動(こうどう)するしかないハズです。でも、目的地(もくてきち)()えた瞬間(しゅんかん)、それまでの不安(ふあん)疑念(ぎねん)()()ります。(よう)は、()いたらわかりますので「行動(こうどう)(さき)」ということです。

  2. 自我(じが)無我(むが)との分別(ふんべつ)

    自我(じが)とは自分(じぶん)知恵(ちえ)(こころ)無我(むが)とは自分(じぶん)肉体(にくたい)。この自我(じが)無我(むが)が、両立(りょうりつ)している事実(じじつ)明確(めいかく)認識(にんしき)すること。これこそが愚拙(ぐせつ)九安(きゅうあん)()仏法(ぶっぽう)体得(たいとく)前提(ぜんてい)条件(じょうけん)となります。(かり)自我(じが)()きたいと(おも)っても、その()(はん)肉体(にくたい)()ぬこともあります。また、自我(じが)()にたいと(おも)っても、(おも)っただけでは()ぬことはできません。自我(じが)意思(いし)()(のぞ)むなら無我(むが)である生命(せいめい)活動(かつどう)停止(ていし)する行動(こうどう)必要(ひつよう)です。つまり、不可分(ふかぶん)とも(おも)える自我(じが)無我(むが)は、別物(べつもの)であることがわかります。それは、ちょうどコンピュータのソフトとハードの関係(かんけい)()()ています。今日(こんにち)では、ソフトであるプログラムやデータが重要視(じゅうようし)され、ハードであるCPU、メモリ、ハードディスクは部品(ぶひん)として、ある意味(いみ)消耗品化(しょうもんひんか)されています。しかし、仏教(ぶっきょう)体得(たいとく)成仏(じょうぶつ)できるのは、ソフト(自我(じが))ではなく、実体(じったい)のあるハード(無我(むが))の(ほう)なのです。つまり、仏身(ぶっしん)成就(じょうじゅ)したのち仏智(ぶっち)仏心(ぶっしん)宿(やど)る、という順序(じゅんじょ)になります。

  3. 自我(じが)無我(むが)確認(かくにん)する行動(こうどう)

    ()より「(いき)確認(かくにん)」という行動(こうどう)伝授(でんじゅ)されました。この行動(こうどう)呼吸法(こきゅうほう)とも()ばれています。自分(じぶん)(いき)呼吸(こきゅう))は、自我(じが)(おこな)いなのか、あるいは無我(むが)肉体(にくたい))が自然(しぜん)(おこな)っているものか。呼吸(こきゅう)は、一時的(いちじてき)には自分(じぶん)でも意識的(いしきてき)(おこな)えますが、普段(ふだん)自律神経(じりつしんけい)(もと)無意識(むいしき)(つづ)いています。(よう)は、自我(じが)無我(むが)分別(ふんべつ)知識(ちしき)として()つのではなく、修業(しゅぎょう)として継続(けいぞく)すること、なのです。(が、(だれ)でも()ってる「ちゃち」で幼稚(ようち)(おも)える指導(しどう)に、いささかも(したが)()にはなれません。そもそも仏教(ぶっきょう)とは関係(かんけい)のない、(さと)りとは程遠(ほどとお)事柄(ことがら)のように(かん)じていました。それから8(ねん)もの歳月(さいげつ)()ぎ、()(うし)落胆(らくたん)(なか)兄弟子(あにでし)からの指示(しじ)()け、万策(ばんさく)()最後(さいご)手段(しゅだん)として(したが)ったのです。)

  4. 無我(むが)集中(しゅうちゅう)する

    (こころ)()()かせ、分別(ぶんべつ)した自我(じが)無我(むが)集中(しゅうちゅう)させます。呼吸(こきゅう)運動(うんどう)全神経(ぜんしんけい)一心(いっしん)不乱(ふらん)集中(しゅうちゅう)します。(こころ)(うご)きを100%静止(せいし)することに成功(せいこう)すれば、この(とき)無量寿(むりょうじゅ)生命力(せいめいりょく)(らく))が体内(たいない)(はい)ってきます。この現象(げんしょう)親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)は、正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)冒頭(ぼうとう)で「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)」と(しめ)されています。すなわち、「(いのち)()すれば無量(むりょう)(よろこ)びのごとくなり」という体得(たいとく)経験(けいけん)です。また、インドの天親(てんじん)菩薩(ぼさつ)は、帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)帰命(きみょう)すれば、すべての方角(ほうがく)場所(ばしょ)障害(しょうがい)となるものはなく、(ひかり)のようだ。さらに、中国(ちゅうごく)曇鸞(どんらん)大師(だいし)南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)南無(なむ)帰依(きえ)すれば、不可思議(ふかしぎ)(ひかり)のごとく、と()かれています。

    自我(じが)無我(むが)集中(しゅうちゅう)した状態(じょうたい)は、「(われ)あって(われ)なき」思考(しこう)停止(ていし)状態(じょうたい)、ただ一心(いっしん)無我(むが)意識(いしき)している状態(じょうたい)です。これを帰命(きみょう)とも南無(なむ)とも(あらわ)されていますが、結局(けっきょく)のところ、その行動(こうどう)(ぎょう))が(ただ)しいかどうかは、体内(たいない)()たものがあるかないか、それが判断(はんだん)根拠(こんきょ)(あかし)となります。

    さらに、錯乱(さくらん)する自我(じが)統一(とういつ)するためには、(いき)確認(かくにん)しながら手首(てくび)脈拍(みゃくはく)から心臓(しんぞう)鼓動(こどう)をも感知(かんち)することもあります。自分(じぶん)意志(いし)とは無関係(むかんけい)不随意(ふずいい))に活動(かつどう)する生命(せいめい)(いとな)みに(ふか)(つよ)()(かえ)集中(しゅうちゅう)します。

  5. (いのち)(たい)する自我(じが)認識(にんしき)

    この体験(たいけん)は、(ぜん)世界(せかい)では見性(けんしょう)体験(たいけん)とも()われています。この(のち)は、不退転(ふたいてん)(くらい)永住(えいじゅう)することができるようになります。二度(にど)(ふたた)(もと)世界(せかい)には(もど)ることはありません。しかし、このことも外見上(がいけんじょう)から他人(たにん)判別(はんべつ)することは困難(こんなん)です。過去(かこ)(おな)じような生活(せいかつ)スタイルですが、内面的(ないめんてき)には自我(じが)無我(むが)との主従(しゅじゅう)関係(かんけい)逆転(ぎゃくてん)した状態(じょうたい)()きて()くようになります。これが(さと)りの境地(きょうち)()えるのですが、なかなかもって共感(きょうかん)する(ひと)もなければ(しん)じてくれる(ひと)もありません。大切(たいせつ)なことは、自我(じが)主人(しゅじん)無我(むが)奴隷(どれい)のような()(かた)から、無我(むが)主人(しゅじん)自我(じが)()()関係(かんけい)へと正常化(せいじょうか)する(わけ)です。つまり、(いのち)来世(らいせ)誕生(たんじょう)することを目的(もくてき)()きて()くようになります。

    自我(じが)()きるに(いのち)()()つは猛勇(もうゆう)なり。
    (いのち)()きるに自我(じが)()()つは勝者(しょうしゃ)なり。

    この()では、自分(じぶん)(ほこ)り、名誉(めいよ)、あるいは、(ゆめ)のために、(みずか)らの(いのち)をかけて()きる(ひと)尊敬(そんけい)されるべき(ひと)かも()れません。また、自分(じぶん)利害(りがい)はさておき、()のため(ひと)のために()きる(ひと)敬意(けいい)(あたい)するでしょう。でも、それは、自分(じぶん)にとっても他人(たにん)にとっても、結局(けっきょく)それぞれの自我(じが)満足(まんぞく)させることに()ぎません。()(なか)常識(じょうしき)は、そうあるべきで、それで()いのかも()れません。もちろん、過去(かこ)九安(きゅうあん)も、その(みち)だけに()きていたのです。しかし、自我(じが)は、この()では()きていられますが、死後(しご)()きられないばかりか、消滅(しょうめつ)してしまいます。そのことは、残念(ざんねん)ながらこの()()まれたばかりの(あか)ちゃん、認知力(にんちりょく)のなくなった老人(ろうじん)()れば(あきら)らかです。

        

    (いのち)()きるために自我(じが)()()つ」とは、(いま)()きている生命(せいめい)来世(らいせ)誕生(たんじょう)するために、自我(じが)満足(まんぞく)だけを目標(もくひょう)()きることを(あらた)めるということです。すなわち、自我(じが)満足(まんぞく)から(いのち)満足(まんぞく)来世誕生(らいせたんじょう))を(もと)めるて()きるのです。投身(とうしん)という言葉(ことば)がありますが、修行中(しゅぎょうちゅう)投心(とうしん)()くべきです。

    (あたま)(なか)では、自我(じが)無我(むが)との分別(ふんべつ)がつくかも()れません。それでは、自我(じが)にとって無我(むが)肉体(にくたい))は、どのような存在(そんざい)なのでしょうか?お(からだ)大切(たいせつ)に、とか、御身(おんみ)自愛(じあい)ください、とは()うものの(じつ)(あわ)れな(あつか)いです。この(あたま)がもっと優秀(ゆうしゅう)なら、この(かお)やスタイルがもっと()ければ、もっと(わか)ければ、、、と()らず()らず愚痴(ぐち)不平(ふへい)不満(ふまん)対象(たいしょう)となっているのではないでしょうか?(かがみ)(うつ)った自分(じぶん)姿(すがた)(たい)し、どのような(おも)いが()()げてくるか、是非(ぜひ)とも静観(せいかん)して()しいのです。そこで、(かり)不満(ふまん)がないとしても、その()(たい)して感謝(かんしゃ)敬服(けいふく)歓喜(かんき)気持(きもち)ちがないとしたら、その()(ただ)道具(どうぐ)としての(あつか)いにほかなりません。つまり、使(つか)えるだけ使(つか)って、使(つか)えないとなると()ててしまいかねない粗末(そまつ)(あつか)いなのです。でも、これほど緻密(ちみつ)高度(こうど)優秀(ゆうしゅう)人体(じんたい)ほどの生物(せいぶつ)機械(きかい)はないハズです。自然(しぜん)環境(かんきょう)大切(たいせつ)(まも)らなければなりませんが、この人体(じんたい)以上(いじょう)にかけがえのない、大切(たいせつ)自然(しぜん)はありません。どうか、(かがみ)(なか)肉体(にくたい)(よろこ)べるまで、このような粗雑(そざつ)(あつか)いに謝罪(しゃざい)ができるまで、()つめ(なお)して()しいのです。人間(にんげん)()(とうと)生命体(せいめいたい)、「()(がた)人身(じんしん)」に()づいて()しいのです。

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