仏とは?

(ほとけ)とは、(さと)りを()(もの)(さと)りとは、真理(しんり)真実(しんじつ)()()(もの)(ふか)意味(いみ)はさておき、表面的(ひょうめんてき)には(うなず)けるでしょう。でも、人々(ひとびと)関心事(かんしんじ)は、(ほとけ)が、どのような外見(がいけん)で、どのような知識(ちしき)()ち、どのような能力(のうりょく)()っているのか、あるいはまた、現在(げんざい)(くる)しみから解放(かいほう)して()しい、さらには、自分(じぶん)(ねが)いをかなえて()しい、そう(おも)われている対象(たいしょう)かも()れません。

一般的(いっぱんてき)仏像(ぶつぞう)仏画(ぶつが)は、荘厳(そうごん)にして慈悲(じひ)(ぶか)表現(ひょうげん)されています。(おお)くの人々(ひとびと)()(がた)気持(きも)ちや敬意(けいい)(いだ)かれるでしょう。阿弥陀如来像(あみだにょらいぞう)釈迦如来像(しゃかにょらいぞう)をはじめとする仏像(ぶつぞう)は、古来(こらい)より文字(もじ)()めない(ひと)でも(ほとけ)(はたら)き、能力(のうりょく)直感的(ちょっかんてき)理解(りかい)できるように(つく)られています。つまり、仏像自体(ぶつぞうじたい)がその能力(のうりょく)()っているわけではなく、本来(ほんらい)は「(ねが)い」をお(ねが)いしたり、礼拝(らいはい)する対象物(たいしょうぶつ)ではなく、あなた自身(じしん)成仏(じょうぶつ)する目標(もくひょう)として()()めるべきものです。(たし)かに偶像(ぐうぞう)ですから誇張(こちょう)想像(そうぞう)もあるでしょう。それでも、仏像(ぶつぞう)には(かず)えきれないほどの種類(しゅるい)がありながらも、その能力(のうりょく)作用(さよう)(はたら)きは、とてもわかりやすく表現(ひょうげん)されています。しかし、実際(じっさい)にこの()成仏(じょうぶつ)した姿(すがた)は、(とく)意識(いしき)して生活(せいかつ)しない(かぎ)一般人(いっぱんじん)(なん)外見上(がいけんじょう)区別(くべつ)がつきません。日常行動(にちじょうこうどう)(おお)くの人々(ひとびと)とも大差(たいさ)がなく、会話(かいわ)をしても相手(あいて)()づかれることさえありません。けれども、内面的(ないめんてき)価値観(かちかん)()(かた)には180()(ちが)いがあり、精神構造(せいしんこうぞう)生命体(せいめいたい)普通(ふつうの)(ひと)ではないのです。ゆえに、(ひと)(あらず)と書いて(ぶつ)と示されているのです。

たとえば、仏像(ぶつぞう)頭部(とうぶ)から背中(せなか)にかけ、(ひかり)(ほのお)放出(ほうしゅつ)しています。これは、後光(ごこう)光背(こうはい)火焔光背(かえんこうはい)などと()われていますが、もちろん、どんなに修業(しゅぎょう)()んだ高僧(こうそう)といえども生身(なまみ)(からだ)から、このような光線(こうせん)火焔(かえん)()()えるはずもなく、また、気高(けだか)威厳(いげん)()ちた姿(すがた)()せて、拝観者(さんぱいしゃ)敬意(けいい)礼拝(らいはい)喚起(かんき)させるための装飾(そうしょく)でもありません。()きとし()けるものの(なか)人間(にんげん)という最高(さいこう)地位(ちい)()まれてきたことは(とおと)(よろこ)ぶべきことです。とはいえ、(しあわ)せに()きたいと(ねが)自分(じぶん)にとっては、この()矛盾(むじゅん)()ち、(まよ)(なや)むほかない暗闇(くらやみ)でもあります。その暗闇(くらやみ)仏智(ぶっち)という(ひかり)()らし、目前(もくぜん)障害物(しょうがいぶつ)()けながら無難(ぶなん)()きることができると()いているのです。また、()()ることのできない邪悪(じゃあく)(こころ)煩悩(ぼんのう))を()()くし、消滅(しょうめつ)させることを(しめ)しています。そして、(ちか)づく悪鬼妄念(あっきもうねん)(たい)しては、(あつ)くて(まぶ)しいバリアやファイヤーウォールのような役目(やくめ)()たします。仏教(ぶっきょう)体得(たいとく)した(ひと)正確(せいかく)には仏身(ぶっしん))からは、(たし)かにオーラともいうべき(つよ)いエネルギーが発散(はっさん)されています。もし、そのエネルギーを感知(かんち)できれば仏教(ぶっきょう)正当性(せいとうせい)確信(かくしん)することができるでしょう。でも、実際(じっさい)には、この()()きたままの仏身(ぶっしん)()える可能性(かのうせい)(かぎ)りなくゼロに(ひと)しいと()わざるをえません。しかし、現在(げんざい)でも、弥陀(みだ)をはじめとする過去(かこ)諸仏(しょぶつ)から発散(はっさん)されている(おなじ)じパワーを受光(じゅこう)することが可能(かのう)なのです。その体験(たいけん)が、まさにあの()浄土(じょうど))の存在(そんざい)(しん)仏教(ぶっきょう)成就(じょうじゅ)する瞬間(しゅんかん)(さと)り:見性体験(けんしょうたいけん))となります。その(あじ)は、「安楽(あんらく)」「快感(かいかん)」「(ねつ)」「パワー」などと表現(ひょうげん)できます。同時(どうじ)に、発光(はっこう)している(がわ)には、それらとは()()えに「苦痛(くつう)」「悲痛(ひつう)」がもたらされますが、()(がた)いことに仏心(ぶっしん)慈悲(じひ)」によって(むか)えられます。ただし、これらの事象(じしょう)第三者(だいさんしゃ)証明(しょうめい)したり再現(さいげん)したりすることは、なかなかもって容易(ようい)なことではありません。自分(じぶん)(いのち)のことですから、(みずか)実証(じっしょう)確信(かくしん)するしかないのでしょう。

その()病気(びょうき)(なお)すとされる薬師如来(やくしにょらい)太陽(たいよう)のような(はたらき)きをする大日如来(だいにちにょらい)、すべての(ひと)(あま)さず(すく)うと()われる千手(せんじゅ)十一面(じゅういちめん)観音(かんのん)釈迦(しゃか)滅亡後(めつぼうご)56億7千万年後に地上(ちじょう)(あら)衆生(しゅじょう)済度(さいど)するといわれる弥勒菩薩(みろくぼさつ)など、たくさんの仏像(ぶつぞう)(いま)伝承(でんしょう)され、仏智(ぶっち)仏力(ぶつりき)(しめ)されています。神秘的(しんぴてき)不思議(ふしぎ)現象(げんしょう)、あるいは、現世利益(げんぜりやく)については好奇心(こうきしん)(つの)るかも知れません。でも、それらは仏教(ぶっきょう)修業中(しゅぎょうちゅう)、また、仏教(ぶっきょう)体得後(たいとくご)成果(せいか)仏果(ぶっか))なのです。そのことに(こだわ)りますと、ややもすると(なや)みや(まよ)いを助長(じょちょう)することにもなりかねません。詳細(しょうさい)については学説(がくせつ)(ゆだ)ねることとします。

さて、「浅学(せんがく)非才(ひさい)(かえり)みず、菩提心(ぼだいしん)をも(はばか)らざる不敬(ふけい)(いた)り」ですが、本講座(ほんこうざ)領解(りょうげ)して()しい課題(かだい)図式化(ずしきか)すると以下(いか)のようになります。

  1. (ほとけ)とは、(さと)りを()(もの)
  2. (さと)りとは、真実(しんじつ)()()(もの)
  3. 真実(しんじつ)とは、(いのち)のこと。
  4. (いのち)とは、人間(にんげん)のこと。
  5. 人間(にんげん)とは、肉体(にくたい)のこと。
  6. 肉体(にくたい)とは、無我(むが)のこと。
  7. 無我(むが)とは、自我(じが)とは無関係(むかんけい)()きている生命体(せいめいたい)のこと。

①②は常識的(じょうしきてき)ですが、③がポイントです。④~は懐疑的(かいぎてき)難解(なんかい)かも()れません。でも、③~⑦の命題(めいだい)のうち、どれかひとつでも得心(とくしん)確定(かくてい)できたとき、仏教(ぶっきょう)体得(たいとく)できるでしょう。もちろん、方程式(ほうていしき)のように暗記(あんき)しただけでは、(まよ)いや疑念(ぎねん)払拭(ふっしょく)されません。(ただ)しい知識(ちしき)善知識(ぜんちしき)」に(もと)づく(ただ)しい行動(こうどう)正行(しょうぎょう)」が実行(じっこう)されれば、衝撃的(しょうげきてき)経験(けいけん)見性体験(けんしょうたいけん)」として「(さと)りの境地(きょうち)」が、あなたの身体上(しんたいじょう)実現(じつげん)されるのです。私自身(わたしじしん)九安(きゅうあん)名乗(なの)るまでの(あいだ)、この命題(めいだい)理解(りかい)できず、悶々(もんもん)とした苦悩(くのう)日々(ひび)()ごしています。

一般的(いっぱんてき)には、真実(しんじつ)とは(うそ)(いつわり)りのないこと、本当(ほんとう)のこと。(いのち)とは()きとし()けるものが()(はたら)きを意味(いみ)しますが、思想信条(しそうしんじょう)精神的(せいしんてき)()(かた)(いのち)」として(とら)えることもあるでしょう。狭義(きょうぎ)意味(いみ)から広範囲(こうはんい)まで、状況(じょうきょう)(おう)じて使(つか)()けているように(おも)います。そこで、その真実(しんじつ)(いのち)がイコールと()われれば、もはや(しん)じる(もの)はいないでしょう。そもそも、仏教(ぶっきょう)(なん)関係(かんけい)があるのか、それさえも(うたが)いたくなるかも()れません。

ここで、(いのち)について(かた)(まえ)にひとつの前提条件(ぜんていじょうけん)(くわ)えます。生物(せいぶつ)ならすべて(いのち)()っていますが、人間(にんげん)以外(いがい)生物(せいぶつ)は、ひとまず無視(むし)しておきます。なぜなら、仏教(ぶっきょう)人間(にんげん)見聞(みき)きし、人間(にんげん)のために()かれた(おし)えであり、(さと)りを()られるのは人間(にんげん)(かぎ)った(こと)だからです。

仏教(ぶっきょう)における「真実(しんじつ)」は、「(しん)」とも「(じつ)」とも、または、「真理(しんり)」とも()われますが、これらは、ほぼ(おな)意味(いみ)()()めて()(つか)えありません。(よう)は、その(いのち)姿(すがた)を「(しん)」、「(じつ)」、あるいは「真実(しんじつ)」と(しめ)されているのです。人間(にんげん)としての生命体(せいめいたい)()()えれば、()まれたばかりの人体(じんたい)自我(じが)(そな)わる(まえ)無垢(むく)(うつわ)意味(いみ)しています。そして、同時(どうじ)にあなたの肉体(にくたい)そのものを()しています。なぜなら、あなたの心肺活動(しんぱいかくどう)は、この()(せい)()け、今日(きょう)まで(やす)むことなく継続(けいぞく)している生命(せいめい)(いとな)みです。あなたの気分(きぶん)喜怒哀楽(きどあいらく)(かか)わりなく、()ても(さめ)めても現在(げんざい)(ささ)(つづ)けています。つまり、その(いのち)(いと)みは、自我(じが)(およ)ぶことのできない(まま)ならない領域(りょういき)です。ゆえに、「無我(むが)」と(しめ)されたのです。この無我(むが)こそ、あの()とこの()時空(じくう)()えて、あまねく自他平等(じたびょうどう)たる(いのち)(いのち)接点(せってん)(インターフェース)となりえるのです。

一方(いっぽう)、「自我(じが)」といえば意識(いしき)はあっても実体(じったい)()く、物質的(ぶっしつてき)にもつかみどころがありません。記憶(きおく)(こころ)一部(いちぶ)外科手術(げかしゅじゅつ)のように削除(さくじょ)摘出(てきしゅつ)することは(いま)のところ不可能(ふかのう)です。正義(せいぎ)も、誠意(せいい)も、善悪(ぜんあく)も、(とき)場合(ばあい)によっては変化(へんか)します。よって、「(こころ)」、「知恵(ちえ)」、「煩悩(ぼんのう)」、「(きょ)」とも(しめ)されています。(おおく)くの(ひと)は、自我(じが)無我(むが)をトータルの人格体(じんかくたい)として人間(にんげん)意識(いしき)しているか、「自我(じが)」の方を「人間(にんげん)尊厳(そんげん)」として(とら)えているのではないでしょうか。いずれにしても、(ひと)それぞれ自我(じが)()(かた)は、まちまちです。

本講座(ほんこうざ)においては、「自我(じが)無我(むが)との区別(くべつ)」、すなわち、「分別(ふんべつ)」が仏教(ぶっきょう)体得(たいとく)前提(ぜんてい)であり入口(いりぐち)となります。この手法(しゅほう)浄土門(じょうどもん)(おし)え)によって(こと)なる自我(じが)()師弟(してい)であっても仏教(ぶっきょう)伝承(でんしょう)を(正確(せいかく)には(たか)確率(かくりつ)で)可能(かのう)としているのです。

前提条件(ぜんていじょうけん)として自分(じぶん)(なか)自我(じが)無我(むが)分別(ふんべつ)ができたなら、無我(むが)にとって自我(じが)とは如何(いか)なる存在(そんざい)なのか、あらためて()つめ(なお)し、()(なお)さなければなりません。すでに、真実(しんじつ)とは(いのち)無我(むが))のことと()きました。つまり、「真実(しんじつ)とは(なに)か」を(もと)めるのではなく、真実(しんじつ)確認(かくにん)し、真実(しんじつ)(とうと)び、真実(しんじつ)主体的(しゅたいてき)に、「真実(しんじつ)()きる」、これが(ほとけ)()(かた)なのです。自他(じた)()わず真実(しんじつ)酷使(こくし)し、自我(じが)欲望(よくぼう)自我(じが)満足(まんぞく)(もと)める()(かた)とは、()(かた)方向(ほうこう)真逆(まぎゃく)となります。ゆえに、「出世(しゅっせ)」とも「解脱(げだつ)」とも(しめ)されています。

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