よしあしの文字をもしらぬひとはみな、まことのこころなりけるを、善悪の字しりがほは、おほそらごとのかたちなり

これは、親鸞(しんらん)聖人(しょうにん)正像末和讃(しょうぞうまつわさん)の中で残された一説(いっせつ)です。正像末(しょうぞうまつ)とは、釈迦(しゃか)の死後1,000年を正しい仏教が実践(じっせん)される正法(しょうほう)の時代とし、その後の500年間は形式的な仏教となる像法(ぞうほう)の時代、さらに像法後10,000年は(さと)りを得る者がいない末法(まっぽう)の時代とされる歴史観(れきしかん)です(期間には諸説があるようです)。正法時代が()から弟子(でし)へと仏教が伝承(でんしょう)されたのに対し、像法の時代には物言(ものい)わぬ絵像木像(えぞうもくぞう)崇拝(すうはい)対象(たいしょう)とするようになり、末法時には人生終末(しゅうまつ)(さい)に行われる儀式(ぎしき)、言わば葬式(そうしき)仏教になっています。親鸞(しんらん)は、この末法(まっぽう)時においても自力(じりき)()て、他力(たりき)にすがることによって極楽往生(ごくらくおうじょう)がかなうと()かれました。21世紀は、末法の傾向(けいこう)も見られますが、すでに(だれ)もが(ぶつ)とも(ほう)とも思わぬ滅法(めっぽう)の時代を迎えているのかも知れません。まさに正像末滅(しょうぞうまつめつ)。文明の高度化とは裏腹に仏教は力を失い衰退(すいたい)一途(いっと)辿(たど)っています。

さて、「よしあしの文字をもしらぬひと…」ですが、鎌倉(かまくら)時代の識字率(しきじりつ)推測(すいそく)すれば大多数の人が文字の読み書きができなかったと考えられます。「善悪(ぜんあく)の文字をも知らない人々は誠実(せいじつ)な心を持っているのに、読み書きを知り善悪(ぜんあく)がわかっているような顔をしているのは大嘘(おおうそ)つきではないか」。親鸞(しんらん)自身が自戒(じかい)(ねん)()めて()べられています。

しかし、この()は、(たん)親鸞(しんらん)自戒(じかい)(ねん)()めて()まれただけではありません。親鸞(しんらん)でさえ、そうなのだから我々(われわれ)自身(じしん)は、()うまでもなく「おおそらごと」の「かたち」なのです。そう()()めなければなりません。いや、そう()かれているのです。

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