愚拙は、呼吸法による「息の確認」と言う行動によって体得できました。呼吸は自分の意思によって行われていません(一時的には制御できますが……)。また、心臓の脈拍は自分の意思によって動いていません。つまり、自分の肉体が、自分の心や知識から独立した無我体であることを確認します。その無我体こそ生命であり生命力であり、「真実」の実体なのです。
息という字は、自の心と書きます。はてさて、誰が何の目的で……?
悟りは、誰も知らない新事実を発明したり、発見したりする事ではありません。上述されている既定の事実に、今さらのように気が付くこと、目覚めること、完全に納得することです。しかし、口で言うほど簡単なものでもありません。経典には「難中(なんちゅう)の難(なん)、これ過ぎたる難はなし。」とも示されています。
人間の生命:自分の命に気がづく(目覚める)ことから体得できるのです。
ちまたでは人間についての定義はさまざまですが、生まれたばかりの赤ちゃんには自我はなく、これを本来の人間として受け止めます。つまり、(証明はできませんが)「自分の肉体(命)が無我(無心)」と自覚ができるかどうか、それが最初にして最後の一歩です。悟りを得た者は、彼(か)の国(仏国:浄土)と現世との間を、自らの命を通じて自在に連結できます。そのことが、来世が存在する根拠となるのです。彼の国から得るものは、力(パワー:生命力)であり楽(安心)です。先の聖人は、得るものに数量の制限がなく喜ばしいことから無量寿(むりょうじゅ)とも表現されました。