仏教(ぶっきょう)とは?と聞(き)かれれば、多(おお)くの人(ひと)は「仏(ほとけ)の教(おし)え」と答(こた)えるでしょう。では、仏(ほとけ)の教(おし)えとは、一体(いったい)どのような教(おし)えなのでしょうか?
辞書(じしょ)には「紀元前(きげんぜん)五(ご)世紀(せいき)ころ、インドの釈迦(しゃか)によって開(ひら)かれた宗教(しゅうきょう)。悟(さと)りを得(え)、成仏(じょうぶつ)して自覚(じかく)すること」とあります。確(たし)かに、学校(がっこう)の試験(しけん)問題(もんだい)なら、これで合格点(ごうかくてん)がもらえるでしょう。でも、仮(かり)に満点(まんてん)がもらえたとしても正解者(せいかいしゃ)が仏教(ぶっきょう)そのものを理解(りかい)しているとは限(かぎ)りません。語句(ごく)の表面的(ひょうめんてき)な意味(いみ)は説明(せつめい)できても、仏教(ぶっきょう)の実体(じったい)を把握(はあく)しているとまでは言(い)えないからです。
たとえば、今(いま)まで見(み)たことも聞(き)いたこともない食(た)べ物(もの)をテレビや雑誌(ざっし)で見(み)たとしましょう。その時点(じてん)では、その食(た)べ物(もの)を単(たん)に頭(あたま)の中(なか)で想像(そうぞう)しているに過(す)ぎません。実物(じつぶつ)に触(ふ)れ、食(た)べて初(はじ)めて味(あじ)や香(かお)りを自覚(じかく)することができます。この体験(たいけん)と同(おな)じように、仏教(ぶっきょう)は体(からだ)に得(え)ること。要(よう)は体得(たいとく)してみないとわかりません。体内(たいない)に取(と)り込(こ)まないと実感(じっかん)がわかないのです。
仏教(ぶっきょう)は、この世(よ)から、あの世(よ)(浄土(じょうど))に生(う)まれ行(ゆ)くための知識(ちしき)と方法(ほうほう)を説(と)いた教(おし)えです。釈迦(しゃか)をはじめ多(おお)くの高僧(こうそう)によって説(と)かれています。
この世(よ)とは現世(げんせ)、今(いま)、あなたが生(い)きている世界(せかい)。あの世(よ)とは来世(らいせ)、あなたの死後(しご)の世界(せかい)のこと。来世(らいせ)には、浄土(じょうど)と地獄(じごく)があると説(と)かれています。「浄土(じょうど)と地獄(じごく)があります」と断定(だんてい)せずに「説(と)かれています」と述(の)べたのは、それをあなた自身(じしん)が、この世(よ)で認識(にんしき)して欲(ほ)しいからです。逆説的(ぎゃくせつてき)ですが、もし死後(しご)の世界(せかい)がないのなら仏教(ぶっきょう)は必要(ひつよう)ありません。誰(だれ)もが避(さ)けることのできない死(し)、そして、死後(しご)の世界(せかい)があるからこそ、仏教(ぶっきょう)は説(と)かれています。さらに、この世(よ)で浄土(じょうど)に生(う)まれるための行動(こうどう)が実践(じっせん)されなければ、浄土(じょうど)に生(う)まれることはできません。そもそも誰(だれ)もが漏(も)れなく浄土(じょうど)に生(う)まれることができるなら仏教(ぶっきょう)など必要(ひつよう)ない、ということになります。
さて、「浄土(じょうど)に生(う)まれるための行動(こうどう)」とは、どのような行動(こうどう)なのでしょうか?具体的(ぐたいてき)には他(た)の項目(こうもく)で述(の)べますが、仏教(ぶっきょう)を求(もと)める者(もの)にとっては修行(しゅぎょう)を意味(いみ)します。真(しん)の修行(しゅぎょう)には、その成果(せいか)としてパワーやエネルギーがあり、味(あじ)もあります。つまり、教義(きょうぎ)を頭(あたま)で理解(りかい)すること以上(いじょう)に、パワーやエネルギーを体内(たいない)に取(と)り込(こ)み、養分(ようぶん)として自分(じぶん)の命(いのち)を仏性(ぶっしょう)に育(はぐく)むこと。体得(たいとく)こそが仏教(ぶっきょう)の最大(さいだい)にして第一(だいいち)の目的(もくてき)なのです。
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